第9章: 激動の旅
1930年· ババ 36歳ページ 1,132 / 5,444
彼らはセーラーのところに泊まり、翌日バーバーはセーラーに対して、部屋と食事を提供したことに対して彼らに料金を請求するように言った。セーラーは、カカ・バリアの家族のような献身的な信奉者からは決して料金を取らないと説明した。彼らはボンベイの自宅でマンダリを幾度も泊めたことがあった。バーバーは分かったと言ったが、セーラーには他の者からは料金を取るように告げた。
ワーマン・スブニスは19日にロナーヴラから来て、ベヘラムも同じ日にプーナから来た。ボンベイ出身のパールシー夫妻、マネク・P・シュロフ夫妻にも、個人面談が許可された。
「愛は祈りや献身を超えています」とバーバーは彼らにおっしゃった。「愛とは、肉体と自我を忘れるほどに、絶えず神を思うことです。情欲を追い求めるよりも、愛に狂うことが望ましいのです。あなた方の犠牲は大きく、また高く評価されています。あなた方は互いを心から愛し、また私をも愛しています。」
同じ夜、アガ・アリの父ハジ・ムハンマドがナーシクに来て、ペルシアにいる息子を呼び寄せることをバーバーに約束した。一方バーバーはラムジューに、ナーシクにあるルストムのシボレー販売店兼整備工場、サロシュ・モーター・ワークスに加わり、22日から仕事を始めるよう命じた。ワーマンと少年ラグナートもそこで働くよう命じられた。
この三人の他に、当時ナーシクでバーバーと共にいたマンダリは、グスタジ、ブアサヘブ、ラオサヘブ、カリム、チャンジ、チャーガン、ヴィシュヌ、ダストゥール、シドゥ、ジャルバイ、ベヘラム、そしてカイクシュル・ボマン・イェクタイ(約1年前にマンダリに加わった)であった。また、バーバーと共に暮らしていたのは約十二人の少年たちで、その中にはカリンガッド、チャンデル、チャーブー、ラジャラム、ラムジューの息子ダドゥ、ダットゥ・メヘンダルゲ、マルティ、ダウラト、そしてボマンの息子ベヘラムがいた。アランガオンのバウ・チーマとラマジ・カンブレも、ナーシクで雇用を与えられていた。
数日後、ボマンの息子をアクバル・プレスへ送って働きながら勉強させ、ダドゥをプーナへ送ることが決まった。
グルマイとダウラトマイは毎日正午から午後4時までバーバーに会いに来ていたが、1930年1月23日木曜日、バーバーは隠遁がはるかに厳しくなるため、翌日から4、5日来ないように二人に告げた。彼はこう説明した。
これは大した「カンタラ」[苦労]ではありません。状況が変わったとき、誰も私と私の困難について考えてはくれません。何かを変えなければならないときには、私はあらゆることを考慮しなければなりません。私が何をするかしないか、またどのような計画を準備しているかを、誰も知りません。誰もが自分のことばかりを考えています。
このような状況での最善の対処法は、ただ従うことです。
