第5章: 沈黙の始まり
1926年· ババ 32歳ページ 751 / 5,444
バブ・サイクルワラはコンサートでバーバーをもてなしたいと願い、プーナから歌い手を連れてくる許可を得た。その日の午後、その男が歌っているとき、二人のサドゥが思いがけず到着し、バーバーは愛情をもって彼らを迎えた。プログラムの途中で、バーバーは歌を止めさせ、長い談話を行った。
神を信じ、神が存在すると言うことは偽善ではありませんが、悟りなしに「私は神である」と言うことは絶対的な偽善です。すべての信仰は知性に基づいており、知的確信なしには信仰はあり得ません。知性を超えたものは、有限で制限された知性によって、あるいは知性を通して理解することはできません。
超越の彼方を捉えようとしたり、それについて知的な観念を得ようとしたりする前に、まず超越の状態が存在すること、それが絶対的に存在することを認めなければなりません。それはいわば定理の前提であり、無限なるもの、果てしなきものに近づくための最初の一歩です。例えば、私たちは神がどなたであるのか、どこにいるのか、本当に存在するのかさえ知りません。しかし、宗教書や賢者たちが説いているように、神とその業を理解し、あるいは観念を持つためには、まず神が存在すること、神という至高の存在が実在することを当然のこととして信じなければなりません。その出発点と神への信頼をもって、神を探し求めはじめなさい。
世の人々、大衆は、本当には神の存在を信じてはいません。彼らはただ、善き者・ふさわしき者には報い、悪しき者を罰する未知の強大な存在として、神を恐れているにすぎません。そして彼らが神自身よりも恐れているのは、神が造った地獄の罰です。もし彼らが本当に神を、神の存在を信じ、神を畏れていたなら、彼らの行いは今日のような不誠実で利己的、欺瞞的で邪悪なものとは大きく違っていたはずです。もし彼らが本当に神を畏れているならば、神を不快にさせるようなこと、神が喜ばないことを決してしないように、常に心を配っているはずです。もし彼らが本当に神を信頼し、神の存在を信じているならば、ただちに神を探しはじめ、神を見いだすまで決して休まないでしょう。なぜなら、神への愛が訪れるとき、神への恐れは消え去るからです。そしてその愛が頂点に達するとき、愛する者は自分自身が愛しい存在であることを見いだします。
もしその人が無神論者で、神の存在を信じていないなら、この道において何の進歩もあり得ません。
