第31章: インドの大地に流れた血
1957年· ババ 63歳ページ 4,141 / 5,444
女性たちは、世界のためのこの苦しみはまだこれから訪れるものだと推し量った。バーバーが涙を流す姿を目にすることは稀なことだった。女性たちはこれまでバーバーがこのような様子を見せるのを目の当たりにしたことがなかった。
激しい痛みの発作は続き、17日にはバーバーに熱も出た。二日後の12月19日、ドンが軍病院からサマレンドラ・チャンドラ・チャタジー博士という整形外科医を連れて来て、バーバーの治療を始めた。チャタジーは38歳で、陸軍の大佐だった。バーバーはチャタジー博士をたいへん気に入り、バンソド博士の治療は中止された。1チャタジーは(バーバーがカカ[叔父さん]・ソーリと愛称をつけた陸軍少佐に)さらにX線写真を撮らせ、牽引装置を外し、バーバーの脚をトーマス副木に二日間固定した。23日の夕方にはこの副木も外され、脚を縛るものが何もなくなって、バーバーはずっと快適になった。
12月22日には、ダイナ・デイというイギリス人女性とジーン・ニックスというアイルランド人女性が訪れ、バーバーに会うことが許された。二人のうち一人はバーバーのことを耳にしたことはあったが、一度も会ったことはなかった。その若い女性たちはイギリスからヒッチハイクで出発し、イランを陸路で抜けてインドを旅していた。アディはアフマドナガルで彼女たちと出会い、バーバーの住所を教えていた。彼女たちはビンドラ・ハウスで一夜を過ごした後、マドラスへと発った。この二人の女性はその後バーバーとさらに接触することはなかったが、まもなく愛しいお方の軌道の中へ入って来ることになる多くの若き西洋人たちの中で、最初の二人だった。
1956年12月19日から20日に変わる真夜中の直後、聖者ガドゲ・マハラジはアムラオティへ向かう途中で世を去った。そして、バーバーがほのめかしていた通り、七日後の12月27日午後4時15分、マスト・アリ・シャーがメヘラバードで世を去った。2バーバーが愛していた二人が世を去ったのだ。
ドンはバーバーのために特別な寝台を仕立て、バーバーは23日にその寝台へと移された。その寝台はバーバーが吊り下げられた二本のストラップを掴んで身体を持ち上げられるように作られており、少しばかりの運動になった。まだ横向きに寝返ることが許されておらず、それが不快さを増していたため、その寝台はバーバーにとってずっと快適なものとなった。マニはドン・スティーブンスへの手紙(1957年1月4日付)でその寝台を次のように描写した。「新しい寝台にはあらゆる種類の滑車や仕掛けが付いていて、背中を診てもらう必要があるときに、バーバーが『ブランコ』の一つを使って自力で身体を半分ほど持ち上げられる様子を、まるで初めて自転車に乗る少年のように『自慢げに』見せてくださるのを見るのが、私は大好きなんです。」
12月24日の朝からバーバーの脚の痛みはかなり和らいだ。一度に数分ずつ起き上がっていられるようになり、怪我をした脚もゆっくり曲げることができた。ときおり微熱が出ながら、それ以外のいつもの痛みや不快感も続いた。
バウが12月31日にジャギンダル・シンへ宛てた手紙に書いた通りである。「今やバーバーの脚は自由になり、揺れを防ぐために砂袋の間に置かれています。バーバーはずいぶん良くなられたように見えますが、あちこちの痛みをしばしば訴えていらっしゃいます。いつも通り、あるときはまるで何事もなかったかのようにとても朗らかに見え、また別のときには大変な苦痛の中にあるように見えます。」
1957年1月5日(土)の午前9時にアディ・シニアとドンがやって来て、バーバーが最初の事故の後に使っていた松葉杖と折りたたみ式の車椅子、そしてカカがメヘラザードから送った大きな絨毯を届けた。バーバーは背もたれに寄りかかって寝台で起き上がり、両脚を伸ばしていた。バーバーはアディに、2月に貧しい人々のために開きたいと考えていた三つのプログラムについて指示を与えた。アディはまた、プネーでサドゥ・ヴァスワニに会い、サハヴァス・プログラムに招かれていたゴダヴリ・マイへ伝える幾つかの伝言を携えてサコリへ行くようにも命じられた。ガデカルは6日にバーバーに会うことを許された。
脚注
- 1.バンソド博士の診療費もまた高すぎることが判明した。
- 2.アリ・シャーはドゥニの近く、ロウワー・メヘラバードに葬られた。バーバーの指示により、そのマストのためのイスラム教の儀式はすべてバーバーの費用で執り行われた。
